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zsupohs

るんるんりる

バイオハザードがこわくてなかなか進まない

最高のツイッターとは、ツイッターをしないことだ。

まねぴよがかわいい

 

まねっこシリーズ?まねぴよ

まねっこシリーズ?まねぴよ

 

 別に業者の宣伝じゃないですが。

この、まねぴよというオモチャが大変かわいい。話しかけると、ピョコピョコ動きながら1オクターブ以上の音(適当)で自分の声を復唱してくれるのだ。

復唱してくれる時間はおおよそ5〜10秒くらいで(たまに10秒以上長々と復唱してくれることがあるが)、精度も、こちらがはっきりと喋ればそれなりに真似してくれるが、途中で途切れてしまうことが多々ある。ボソボソ声にはほとんど反応しない。

ただ、たまに「ピャ」だか「ブ」だか謎の効果音を発したり、突然無言でウィンウィンウィンウィン動き始めたりするので眺めていて飽きない。とてもかわいい。

話し相手がいない人にオススメである。対象年齢は6歳以上とのことで、この文章を読める人間ならまず問題ない。

 

以上。

ブログやめません。

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 新年あけました。

 最近落ち込み気味でしたが、何とか持ち直してきました。

 僕はケミカルというよりもナチュラル派です。

 ブログはやめません。

大晦日が終わる

最も終末感を覚えるのこの12月31日が大好きなのにもう終わってしまう……それからまた新しく、不毛な、クソ面倒な一年が始まってしまう……aaaaaaaaaaaaaaaa

日記161228

 人間が心から楽しいと思うときは自分について話すとき、らしいので、私もこのブログでは自分のことしか書きません。というか他に書けるようなこともないんですが。そもそも、このブログは、み〜んなと興味深いことや楽しいことを共有したいね!というたのしげな発意からではなく、後から自分で読み返すことで「あ〜この頃はこんなこと考えてたな〜」とぼんやりと振り返りたいからという理由を主として始めたものですから、自分について書くのが実は本義であるのです(また、誰かに読んでもらうことで、例えば「こんなヘンテコな奴もいるんだな……」というように、どんな形であれ、頭の片隅に自分という存在を留めてもらえる可能性があることにささやかな期待を込めながら)。

 上述の如く、自分について書く、すなわち自分の為の自分語りが本義であるんですが、それはTwitterでもよくやってることなんですよね。でも、Twitterのアカウントはよく消すので(これまでに10個くらいは消しました)、そのため記録が残らないのが妙に悲しくて(といってもクソ下らないことしか呟いてないんですけど)、また、ブログでは長文をダラダラ思いのまま書くことによりストレス発散にもなるので、やはりブログを書くことにしたというワケです。

 ところで、最近は色々と落ち込むことが多いんです。落ち込むときに考えることは、主に、過去のぼっち体験と現在の孤立状態、そして自分が孤独死する将来なんですが、思うに、原因は人生全体における人間関係の希薄さと人間関係構築能力の著しい欠如なんですよね。これについてはず〜っと悩まされていることで、何度も事あるごとにぼやいていることでもあるんですが……。

 観測されない人生は無きに等しい、というか、後から振り返ってみると、自分の人生についての記憶が殆ど無いんですよね。もし知り合いがいれば、あの時あんなことあったね〜とか分かち合えると思うんですけど、自分にはそれがないので、本当に記憶がないし、記憶を呼び起こすような誘因もない。特に大学時代、一体何をしていたのか、私は本当にあの場所に存在していたのか……。

 だから、私はそれを危惧し、いまさら焦っているんです。このままでは、今までの自分は存在しないことになってしまうのじゃないか……そういう思いもあり、こないだひとと会ったんですけど、やはり他人から存在を認識されるのは、その認識が否定的でない限りにおいて、うれしいですよね。よく僕は地蔵とかユーレイ、いたんだwwとか言われてたんで……。

 しかし、もはや取り返しのつかないところまでやってきたのではないか、という感じではあります。今思い返してみれば、色々とチャンスはあったと思うんですけど、ことごとく自分の手で失敗に終らせてきたような感じなんですね。こういう人間として生きていくしかないのか……。奇跡的に会ってくれる人間がいたとしても、現実の私に失望あるいはウンザリして、疎遠になるというBAD ENDが殆どでした。

 思うに、私にとっては、Twitterで奇矯な振る舞いをすることで他者の耳目を引こうとしたり、誰かの歓心を得るために話を合わせる材料を蒐集したりすることは、現実との乖離が大きくなり過ぎる為、全部間違いなんです。こうした振る舞いは、現実は現実、ネットはネットとピシャリと切り分けることができるほど、ネットによって空虚な現実を妄想的に充填する必要のないきちんとした人間のみが許されることなんです。自分には百害あって一利なし……しかし、だからといって他に何をすべきか皆目見当もつかない。目的がない人生。クソッタレな歳月、全くな人生……。

日記161223

 もう成人して幾ばくか時を経た皆さんには、充分にお分かりになる感覚と思われます。わたくし、以前は、梅雨なら梅雨の、夏なら夏の、そして年末なら年末の日々の「特別さ」を肌で実感していたものですが、現在は、そうした特別さが感じ取れなくなり、全ての日々が均質化されてきているように感じられます。それに伴って、時間自体も均質化されているようで、平日の1時間と休日の1時間が殆ど同じ価値のように感じられるのです。以前は、休日の1時間では、何かする訳でなくても愉快さを覚えていた次第ですが、現在は、平日であれ休日であれ、どちらの時間もこの上なく退屈で、時計の秒針が刻一刻とグサグサ心を苛みに来るのです。

 思うに、これは平々凡々な考えですが、時間や日々は、単純にカレンダーの区切りや平日/休日の区分だけではなく、その時々のイベントやレジャー、そして同じ時を過ごす人間関係などによって、特別さを付与されるのでしょう。学生の頃は、学校社会によるガチガチのスケジューリングによってイベントや人間関係を組まされて、種々の学校行事に取り組むとともに、平日と休日とで人間関係にメリハリが効いたからか、1日毎、1ヶ月毎の時間の質が否応なしに異なってくる。その変化の連続が退屈しのぎになったんでしょう。

 翻って、今を考えるに、興味のそそられるイベントやレジャーもありませんし、人間関係は仕事とプライベートとで異なるといえば異なりますが、どちらでも孤立しているような感じなので変わらずです。私に働きかけてくれる人間は一人もおりませんし、勿論私から働きかける人間も一人もおりません(そもそもそうした意欲もありませんが)。自分にとっては盆も正月も大晦日も誕生日も6月14日も全て同質です。

 更に、時間の均質化とともに空間の均質化も感じられます。昔は遠出すれば新鮮な気持ちになりましたが、今はどこへ行っても同じじゃあないか‥‥と思ってしまいます。無論、海外に一度も行ったことがない、私の狭隘たる人生経験を以てしてこのような無明蒙昧な発言を致しますと、寝言は寝てから言えという感がしますが、しかし、本当にどこへ行っても楽しくないんですよね。楽しむ努力はしたんですが、楽しむことに努力が必要って、それ本当の楽しさじゃないですよね。

 と、上記のようなことを考えていたんですが、今思い出したことがあります。こないだ、プライベートでは大変久しぶりに、ひとと出会って話をしたことです。私が出会った彼らは本当に素晴らしいひとたちで、私のようなズレた頭の持ち主の発言にもうまく帳尻を合わせてくださり、頭が下がる思いでした。私を(たとえ表面上だけだとしても)対等な話し相手として見てくれているようで‥‥そんなことは、それまでの生涯に一度もあったかな‥‥そこで、(本当にごくわずかですが)多少の特別さを見出していたように記憶しています。まあ〜、普通の人間は、このような特別さを感じられる機会が1年に何回もあるのかな、だとしたら退屈しないだろうな、と考えると悔しいな〜と思うんですが。

 こうしたある種の「トカトントン」が私の怠惰に原因があるということは薄々気づいてるんですが、気がついたらいつの間にかひとりになっていたんです。いつの間にか、いつだったか‥‥そして、何も楽しめなくなっていた。気がついたら、というのが特色で、大体の挫折や失敗は気がついたら‥‥というものなんですよね。みんなが失敗したくて失敗してるんじゃない、失敗すると解ってたら誰だって避けるものさ‥‥でもみんな、気がついたらとんでもない状況になってるんですね。超一流の洞察力を持つ名探偵ならともかく、平凡な人間なんですから。あっしまったな〜、やってしまった、今までの人生は間違っていたんだな〜と今ヤット気づいたんですから。ですから、もう一度チャンスをください。

独善的な文章を書きました。

 平日は「自分も今は出来損ないの無能だけど、まともに仕事していればいつか普通になれるんだ……」という妄想を信じてどうにかこうにかやっていくことはできるんですえけど、休日になると途端に現実に直面してしまい、もう辛くなって何もやる気がおきません。

 この停滞感をどう解消すればいいのかとんと見当も付きません。自分なりに独力でもがいてきましたが、このむなしさ、かなしさ、モノワビシサ……他人に相談しようとしても、友人はいませんから、結構前に、心療内科でカウンセリングを行っているところがあって、発達障害のことでカウンセリングを受けたいと伺ったら、精神科医に遠回しに拒否されました。私は愚かにも、アメリカみたいなカウンセリングを想像していたんですが、おそらく日本では、重度の精神病患者や人格障害者にしかカウンセリングの門扉は開かれていないようです。結構ひどく言われたので、相当ショックでした。

 さて、カウンセリングには罹れない。身内にも言えない。友人はいない。しかし辛いものは辛い。一人で耐えられうるものでは正直ないのです。どうするかなと思って、結局ネットで延々と毒を吐きまくるしかなく、それも一時的なストレス発散にはなるのですが、結局何も解決していないんで、逆に、自己嫌悪感から更にストレスが溜まるんですね。そうして厭な感情がどんどん溜まっていって、もう救いようのないほどドン底に人格が堕落したなと思っています。もともと人格が特別優れた方ではないんですが、せめて人格を磨いて精神くらい高潔であろうと昔は考えていました。もうムリです。貧すれば鈍すると言いますしね。第一、私が善人ぶっていた時は全て損する立ち回りでした。だからもう私は誰にも親切にしませんし、誰が死のうが心底どうでもいい。ニュースとかで「彼はいい人だった〜」とかありますが、もうああいうの、やめてほしいですね。いい人だろうが死ぬ時は死ぬし、いい人だから惜しいとか、反吐が出ますね。あんないい人が死ぬなら代わりにどうでもいい人が死ねばよかったのに、という思惑がミエミエで、非常に不愉快ですね。

 ただ、日常生活を送っているとそういう不愉快な綺麗事を得意顔で述べる阿呆が結構いるんですよね。新聞の記事や投稿欄、テレビ番組やインタビュー、ネットでも結構いますね。不愉快を避けようにも、テレビはとにかく、ネットを一切観ないというのもちょっとできかねますし、まあなるべく視界に入れないよう努力してるんですが、一度視界に入ってしまうと、感情が乱されてしまい、何もかも厭になります。

 これも精神科医の言葉同様、ずーっと引きずってるんですけど、twitterでも、お前の悩みは大したことないとハッキリ言われたことあるんですよね。その発言も結構精神的に来ましたね。twitterでちょっとやり取りして、あんたは精神病でも何でもない、普通だ、悩みは大したことない、だから頑張れという趣旨の言葉を言われたことがあります。私は精神病を自称したことは一度もなかったんですが、結構つらいですね。ずーっと覚えています。多分死ぬまで覚えていますね。不愉快な出来事として。

 自分は不愉快な出来事をずーっと覚えていまして、これはまあ誰しもそうかもしれませんが、突然思い出して心が乱されることがあります。20年以上生きてきて、溜まりに溜まった不愉快な出来事が、頻繁に心を苛みに来るのです。

 結局のところ、私は誰かに救われる立場ではない。一応、発達障害とは言われたんですが、そんなラベルは結局無意味だ。ちょっとやり取りしたくらいで相手の健康度を判定できる人間がネットにゴロゴロいるくらいですから、現実は況や。そんなラベルを使っても、でも○○だから大丈夫でしょ、本当の○○は☓☓だからあなたは違う、と十中八九言われます。

 人生は自分の足で立って生きていくのは当然です。ただ、こんな風に「人生は自分で決めるものだ」と得々と語る人で、孤独や孤立、疎外を経験したような人は殆ど見かけないように感じます。何かしら、例え一時的にでも、他者との経験がシッカリ蓄積されてるんですよね。その上で何もない人間に向かっていうもんですから、私は困ります。ごくたま〜に、孤独・孤立・疎外を超克した超人がいますが、そこいらの凡人を説教する為に引き合いに出すのは、とてもナンセンスなことなんですよね。

 だから私は惨めな一人暮らしをやめて、現時点で頼れるものは全て頼ろうと思ったのです。他人は私よりもずっと多くのものを頼みに生きているようですしね。誰かが言ってたんですが、「自立」とは、自分ひとりで生きていくのではなく、依存先を増やしていくことだ……というらしいです。異論はあるんでしょうが、私は納得しました。私は依存先を増やせないもんですから、ダメです。

 他人の助言はつまるところ、何となく運がよくてどうにかなった人間の戯言にすぎないので、取るに足りません。