zsupohs

鬱みたいな日記

the pillowsとPink Floydと。

 これは私見であるが、ネクラな人間の多くはthe pillowsが好きである。かくいう私も好きである。社会の鼻つまみ者にとっては歌詞の聴き心地が特に良い。作詞担当の山中さわおがネクラとは正反対の人間であるのに、どうしてこうもネクラの心を動かす歌詞が書けるのか、不思議なことである。

 好きな歌詞について書くのは大変恥しい行為であると思われるが、好きなんだからしょうがない。the pillowsの歌詞について触れるとすると、彼らの歌詞には常に孤独がつきまとっているように感じられるのである。ニヒリズムの雰囲気が漂っていて、とても悲観的である。「希望がある」「頑張れば必ず報われる」といった嘘くさい綺麗事が一切なく、かといって激しく絶望している訳でもない。静かな絶望の中に吊るされているような、正負両端に積極的に振れる必要がないのが、安心するのであろう。ニヒリストを気取って一切の物事を醒めた目で見がちなネクラにとっては、熱くもなく、かといって必要以上に絶望的でないthe pillowsは、非常に魅力的に映るのではないか。

 以下も私見である。例えば彼らの代表曲『ストレンジカメレオン』の歌詞なんかは、孤独感を饒舌に表現している詩に他ならない。歌詞中に出てくる「君」とは何を指すのかという問題があるらしいが(ファンだとかメンバーだとか音楽性自体とか色々あるらしい)、絶対に「恋人」なんかではないのが大変ステキである。これをミスチルが歌うと量産的ラブソングになるからつまらない(別にミスチルが嫌いなわけじゃない)。自分の音楽性や志向性が周囲から理解されていないこと、ひいては精神的に孤絶していることに対する苦悩を書き表した素晴らしい詩である。まあ僕は質が悪いのでバンドやってる時点で孤独でもなんでもないじゃん、とか思うんだけど、バンドの実態と歌詞を切り離して考えると、魅力される詩だ。

 後は、

  • レッサーハムスターの憂鬱
  • ICE PICK
  • Robotman
  • Blues Drive Monster
  • Curly Rudy

なんかもネクラ受けがよいのではないか。『Blues Drive Monster』とかは青臭い疎外感をよく表している。

 ネクラな人間の多くはthe pillowsが好きと冒頭に述べたのは、ネクラ→アニメ好き→FLCLも好き→FLCLの挿入歌はthe pillowsの楽曲である→ネクラはthe pillowsが好き、という単純な連想も背景にあるのだが、以上のような彼らの楽曲の雰囲気も関係あるんじゃないかと思った次第である。

 ところで、似たようなもので、メンヘラの人間の多くはPink Floydが好きではないか、と私は思うんだけれど、あまりいなさそうである。絶対ウケると思うのに。

人間性について書きました。

 他人を指弾する際、「人間性に歪みがある」という文句はよく使われるところであるが、人間性の歪みとは一体なんなのだろうか。そもそも、人間性、人間らしさとは何なのだろうか。私には今のところ全くわからないけれども、彼らは人間性という言葉の語義について明確に理解するがゆえに、こうした文句を言っているのであろうから、彼らにぜひ訊ねてみたい。人間らしさとは何なのか。例えば、自分より弱い人間がいたら、虐めたくなる心理が人間らしいのか。それとも、弱者いじめはよくないという姿勢を持つのが人間らしいのか。ここで、いじめるとは、相手の財物を略取したり、身体に暴行を加えたり、精神的な苦痛を与えたり、生命を奪ったりすることであるとする。後者の「人間らしさ」は、私の感覚的からするとちょっと宗教的な匂いがするし、人為的に発明せられた倫理意識を以て後天的に獲得された特性のようで、人間のナチュラルな特性じゃあないような気がする。もちろん、弱者をいじめるのではなく逆に弱者を介助するような特質は、ネアンデルタール人にも発見されうる原初的な特質であり、彼らの遺伝子が我々現生人類に継承されているとすると、そのような特質は現生人類発生時点で保有されていることとなり、人間らしい特質であるとも言えるかもしれない。が、それは仲間内の弱者に対象を限定される性質であり、仲間でないと判断された者に対しては、無効であると思われる。仲間以外の弱者をいじめることは、実にふつうなことである。先史時代から歴史時代にかけて、ユーラシアから極東アジアに至るまで、全時空的に行われてきた極めて普遍的な人類の行為である。詮ずると、いじめをする人間は極めて人間的な人間であり、人間的にまっすぐな特質を持つのであるといえるのではないか。

 こんな不毛で下らない文章を書きたくなるのは、世の人間が、人間を過大評価しすぎていることに違和感を覚えるからである。一旦世間の常識を差し置いて、私個人の考えからすると、人間らしい人間より、人間らしくない人間のほうが好きだ。そして、人間より犬が好きだし、犬と同等に猫が好きだ。ごくたまに犬や猫のような人間がいるが、彼らも悪くない。赤ん坊や子供は、人間というより動物に近いから、可愛げがある(ただ彼らは潜在的に弱者いじめという人間らしい側面を極端に見せるようになる)。至極簡潔に言えば、人間は本質的に悪であり、人間らしさとは悪徳であると私は考えているというだけのことなのである。

 思うに、犯罪者や殺人者、不良行為少年諸氏は人間に極めて忠実、まっすぐなんだと思う。それを認めた上で、人間性が原因で惹起される彼らの悪徳事件を断罪し、非人間的価値観を推し進めていく必要があるのだ。長時間労働なんかも、非人間的(非人道的は似ているが違うと思われる)だからでなく、極めて人間的な発想―時間をかけていればその成果如何を問わず、頑張っていると見做すようなごく単純で自然な人間の心理的発想―から、換言すれば、気持ちの問題が根源に存在するから、引き起こるのであろうと思う(更に、これも極めて人間らしいが、他人の目を気にする人間の心理、自分より先に帰る奴が憎い心理もあるんじゃないか)。

 以上の文章じみた支離滅裂な単語並べを、苦痛に耐え忍んで読めば、私がいかに人間性に問題があるか理解して頂けるのだと思う。私はこれまで恋人はもちろん、親しい友人など一切持ったことがないし、壊滅的な社交性ゆえ、他人から好意を持たれたことは一度もない。オカルティズムやペシミズム、ニヒリズムをごちゃ混ぜにした思索もどきをするほか、趣味もなく、特技もなく、これからの人生に対して一切の期待を廃棄した人間である。しかし、私には犯罪意欲が全くないし、弱者を虐めた経験よりもむしろ、虐められた経験のほうが数多い。私は歩行者として信号を忠実に守り、電車で隣に空席があればカップルに座席を譲り、カフェの店員さんが不手際で私の衣服に飲料をぶっかけても決して怒らない。これらは実は、全て私の人間性が歪んでいるからなのである。

 この文章は、罪を犯した人間に対して、「人間性に問題があるのではないか」「教育の問題だ」「詰め込み教育より人間らしさを育む教育を」といった、具体的内容が一切伴っていない批判が衆人に賞賛されているのを目にする度に零さざるをえない長嘆を、天才チンパンジーのアイちゃんが言語訓練の為にひどい日本語で書き表したものであるから、『別冊社会不適合』関係者各位以外の方は、醒めた目で知らんぷりして頂くのが、最善であろうと思う。

 つまるところ、「人でなし」という侮蔑と「人間離れした」という賞賛がせっかく同居しているのだから、片一方を愛でるばかりではいけない。「人間らしい」という観念が、肯定的な観点からというよりも、全く逆に否定的な観点から捉えられるべきではないか、別に否定的じゃなくても、男らしさ、女らしさといった観念とともに見直されるべきではないか、と言いたいのかもしれない(自問自答)。

へそ天エリザベスカラー

  学生の頃は、その生活が消極的な態度を許してくれたから、怠惰な私でさえも、平凡な日常の繰り返しを孤独に乗り切ることに何ら苦はなかった。ただ今は生きる為には、働いて、生活費を稼いで、人間関係を良好に維持しながら、精神を病むことなく、無意味な生を生き切らなければならないという積極性で前向きな姿勢が必要とされている。そこでは消極的であったり、悲観的であったりすることは殆ど許されない(少なくとも精神病者や自殺者に対する世間の眼差しを考えると、私にはこう思えるのである)。

 学生の頃と社会人の頃とで変わらないものは、日常の平凡さである。ただ、社会人になって私に課せられる役割の多くは私の能力を越えたものであり、世間の普通の人程でもないだろうけれど、それなりに困難や挫折を感じることがしばしばあった。しかし、それらの役割は幸か不幸か、心を挫くほど激烈に暴力的でもなく、その耐え難い重圧ゆえに逃避手段として死を選ぶほどの深刻さもない。死を真剣に考えるほど追い詰められることはないけれど、このどっちつかずな状況によって、生きることにも死ぬことにも真摯になれないでいる。ただ気がついたら、人生という面倒な問題に当事者として巻き込まれていて、訳もわからないまま、当事者としての責任を求められている。

 どこかで聞いたけれど、一説によると、責任とは自身の自由な行為に伴って生じる務めらしい。だが、人生はその始まりからして不条理なものだから、なんでこの人生の責任を一から十まで負わねばならぬのかと考えないこともない。組織上で課せられる責任について言えば、その務めは果たさねければならないが、生きる上で課せられる責任って何なんだ……。つがいになって、子供を産んで、育てて、死ぬことならば、残念ながらその責任は果たせそうにない。

 単純に生活に面白さ、興味深さがない。今読んだ本に、興味深いとは一見主観的な形容に見えるが、その実は客観的であり、物事の複雑さや深刻さに比例して興味深さも増してくるという。一言で言えば僕はバカなので、複雑な事柄や深い問題について理解が及ばない。何とか興趣を感じ得ようとしても、中々難しく、これが興趣であると理解することまでは可能だが、本当の面白さを体感できることがない。いや、一時的に情動が突き動かされることもありますが……これはナンセンスだという考えが常に片隅にあり、本当に楽しめない。人生楽しくないですよね。懲役40年という皮肉が皮肉じゃなくなってきた気がします。

 といいつつ、最近になって再び、一部界隈でカルト的人気を誇る女児向けアニメ・アイカツ!を視聴し始めている。大体25話まで見終わったところである。話のスタイルは子供を対象としたアニメらしく、一貫して教訓的で前向きな話が続き、穏やかじゃない空気が殆どないユートピア的世界が展開されている。特に、降りかかる苦難やチャンスに対して果敢に挑戦していく星宮いちごの天真爛漫な姿を観るにおいては、毎回思わず涙せざるを得ない。アニメ全体の話の展開も、現在放映中の女児アニメ・プリパラと比べると、破天荒さやその場の雰囲気によるゴリ押し等が全く存在せず、極めて論理的で美しく構成されている。そこには理性の光というか、真理に対する明快で真摯な姿勢が示されており、合理的で適切なプロセスを踏んでいけば必ず真理へ辿り着けるという確信に満ちた雰囲気が全体にあるように思える。ここで真理とはトップアイドル、神崎美月(≒神)のことだと思われる。勿論アイドル全員が適切なプロセスを踏める訳ではないだろうが、いわゆる「正しい努力は正しい形で報われる」という思想が背景に感じられると私は個人的に思うのである。実に元気づけられるアニメである。20話からは藤堂ユリカという個性的なアイドルが登場しているが、私は彼女のキャラクター性が非常に好きである。益々今後が楽しみである。

 ところで、私が女児アニメを観始めたキッカケを考えたけれど、それはtwitterでフォローしている人のアイカツに対する愛に対して、不可解さを感じつつ興味を覚えたからだと思い出した。その人はある種魅力的な人だったが、その魅力的な人物がハマる女児アニメとは一体……。そこで女児アニメとして当時土曜日に放送されていて視聴可能だったプリパラを観始めたのである。