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zsupohs

るんるんりる

独善的な文章を書きました。

 平日は「自分も今は出来損ないの無能だけど、まともに仕事していればいつか普通になれるんだ……」という妄想を信じてどうにかこうにかやっていくことはできるんですえけど、休日になると途端に現実に直面してしまい、もう辛くなって何もやる気がおきません。

 この停滞感をどう解消すればいいのかとんと見当も付きません。自分なりに独力でもがいてきましたが、このむなしさ、かなしさ、モノワビシサ……他人に相談しようとしても、友人はいませんから、結構前に、心療内科でカウンセリングを行っているところがあって、発達障害のことでカウンセリングを受けたいと伺ったら、精神科医に遠回しに拒否されました。私は愚かにも、アメリカみたいなカウンセリングを想像していたんですが、おそらく日本では、重度の精神病患者や人格障害者にしかカウンセリングの門扉は開かれていないようです。結構ひどく言われたので、相当ショックでした。

 さて、カウンセリングには罹れない。身内にも言えない。友人はいない。しかし辛いものは辛い。一人で耐えられうるものでは正直ないのです。どうするかなと思って、結局ネットで延々と毒を吐きまくるしかなく、それも一時的なストレス発散にはなるのですが、結局何も解決していないんで、逆に、自己嫌悪感から更にストレスが溜まるんですね。そうして厭な感情がどんどん溜まっていって、もう救いようのないほどドン底に人格が堕落したなと思っています。もともと人格が特別優れた方ではないんですが、せめて人格を磨いて精神くらい高潔であろうと昔は考えていました。もうムリです。貧すれば鈍すると言いますしね。第一、私が善人ぶっていた時は全て損する立ち回りでした。だからもう私は誰にも親切にしませんし、誰が死のうが心底どうでもいい。ニュースとかで「彼はいい人だった〜」とかありますが、もうああいうの、やめてほしいですね。いい人だろうが死ぬ時は死ぬし、いい人だから惜しいとか、反吐が出ますね。あんないい人が死ぬなら代わりにどうでもいい人が死ねばよかったのに、という思惑がミエミエで、非常に不愉快ですね。

 ただ、日常生活を送っているとそういう不愉快な綺麗事を得意顔で述べる阿呆が結構いるんですよね。新聞の記事や投稿欄、テレビ番組やインタビュー、ネットでも結構いますね。不愉快を避けようにも、テレビはとにかく、ネットを一切観ないというのもちょっとできかねますし、まあなるべく視界に入れないよう努力してるんですが、一度視界に入ってしまうと、感情が乱されてしまい、何もかも厭になります。

 これも精神科医の言葉同様、ずーっと引きずってるんですけど、twitterでも、お前の悩みは大したことないとハッキリ言われたことあるんですよね。その発言も結構精神的に来ましたね。twitterでちょっとやり取りして、あんたは精神病でも何でもない、普通だ、悩みは大したことない、だから頑張れという趣旨の言葉を言われたことがあります。私は精神病を自称したことは一度もなかったんですが、結構つらいですね。ずーっと覚えています。多分死ぬまで覚えていますね。不愉快な出来事として。

 自分は不愉快な出来事をずーっと覚えていまして、これはまあ誰しもそうかもしれませんが、突然思い出して心が乱されることがあります。20年以上生きてきて、溜まりに溜まった不愉快な出来事が、頻繁に心を苛みに来るのです。

 結局のところ、私は誰かに救われる立場ではない。一応、発達障害とは言われたんですが、そんなラベルは結局無意味だ。ちょっとやり取りしたくらいで相手の健康度を判定できる人間がネットにゴロゴロいるくらいですから、現実は況や。そんなラベルを使っても、でも○○だから大丈夫でしょ、本当の○○は☓☓だからあなたは違う、と十中八九言われます。

 人生は自分の足で立って生きていくのは当然です。ただ、こんな風に「人生は自分で決めるものだ」と得々と語る人で、孤独や孤立、疎外を経験したような人は殆ど見かけないように感じます。何かしら、例え一時的にでも、他者との経験がシッカリ蓄積されてるんですよね。その上で何もない人間に向かっていうもんですから、私は困ります。ごくたま〜に、孤独・孤立・疎外を超克した超人がいますが、そこいらの凡人を説教する為に引き合いに出すのは、とてもナンセンスなことなんですよね。

 だから私は惨めな一人暮らしをやめて、現時点で頼れるものは全て頼ろうと思ったのです。他人は私よりもずっと多くのものを頼みに生きているようですしね。誰かが言ってたんですが、「自立」とは、自分ひとりで生きていくのではなく、依存先を増やしていくことだ……というらしいです。異論はあるんでしょうが、私は納得しました。私は依存先を増やせないもんですから、ダメです。

 他人の助言はつまるところ、何となく運がよくてどうにかなった人間の戯言にすぎないので、取るに足りません。

the pillowsとPink Floydと。

 これは私見であるが、ネクラな人間の多くはthe pillowsが好きである。かくいう私も好きである。社会の鼻つまみ者にとっては歌詞の聴き心地が特に良い。作詞担当の山中さわおがネクラとは正反対の人間であるのに、どうしてこうもネクラの心を動かす歌詞が書けるのか、不思議なことである。

 好きな歌詞について書くのは大変恥しい行為であると思われるが、好きなんだからしょうがない。the pillowsの歌詞について触れるとすると、彼らの歌詞には常に孤独がつきまとっているように感じられるのである。ニヒリズムの雰囲気が漂っていて、とても悲観的である。「希望がある」「頑張れば必ず報われる」といった嘘くさい綺麗事が一切なく、かといって激しく絶望している訳でもない。静かな絶望の中に吊るされているような、正負両端に積極的に振れる必要がないのが、安心するのであろう。ニヒリストを気取って一切の物事を醒めた目で見がちなネクラにとっては、熱くもなく、かといって必要以上に絶望的でないthe pillowsは、非常に魅力的に映るのではないか。

 以下も私見である。例えば彼らの代表曲『ストレンジカメレオン』の歌詞なんかは、孤独感を饒舌に表現している詩に他ならない。歌詞中に出てくる「君」とは何を指すのかという問題があるらしいが(ファンだとかメンバーだとか音楽性自体とか色々あるらしい)、絶対に「恋人」なんかではないのが大変ステキである。これをミスチルが歌うと量産的ラブソングになるからつまらない(別にミスチルが嫌いなわけじゃない)。自分の音楽性や志向性が周囲から理解されていないこと、ひいては精神的に孤絶していることに対する苦悩を書き表した素晴らしい詩である。まあ僕は質が悪いのでバンドやってる時点で孤独でもなんでもないじゃん、とか思うんだけど、バンドの実態と歌詞を切り離して考えると、魅力される詩だ。

 後は、

  • レッサーハムスターの憂鬱
  • ICE PICK
  • Robotman
  • Blues Drive Monster
  • Curly Rudy

なんかもネクラ受けがよいのではないか。『Blues Drive Monster』とかは青臭い疎外感をよく表している。

 ネクラな人間の多くはthe pillowsが好きと冒頭に述べたのは、ネクラ→アニメ好き→FLCLも好き→FLCLの挿入歌はthe pillowsの楽曲である→ネクラはthe pillowsが好き、という単純な連想も背景にあるのだが、以上のような彼らの楽曲の雰囲気も関係あるんじゃないかと思った次第である。

 ところで、似たようなもので、メンヘラの人間の多くはPink Floydが好きではないか、と私は思うんだけれど、あまりいなさそうである。絶対ウケると思うのに。

人間性について書きました。

 他人を指弾する際、「人間性に歪みがある」という文句はよく使われるところであるが、人間性の歪みとは一体なんなのだろうか。そもそも、人間性、人間らしさとは何なのだろうか。私には今のところ全くわからないけれども、彼らは人間性という言葉の語義について明確に理解するがゆえに、こうした文句を言っているのであろうから、彼らにぜひ訊ねてみたい。人間らしさとは何なのか。例えば、自分より弱い人間がいたら、虐めたくなる心理が人間らしいのか。それとも、弱者いじめはよくないという姿勢を持つのが人間らしいのか。ここで、いじめるとは、相手の財物を略取したり、身体に暴行を加えたり、精神的な苦痛を与えたり、生命を奪ったりすることであるとする。後者の「人間らしさ」は、私の感覚的からするとちょっと宗教的な匂いがするし、人為的に発明せられた倫理意識を以て後天的に獲得された特性のようで、人間のナチュラルな特性じゃあないような気がする。もちろん、弱者をいじめるのではなく逆に弱者を介助するような特質は、ネアンデルタール人にも発見されうる原初的な特質であり、彼らの遺伝子が我々現生人類に継承されているとすると、そのような特質は現生人類発生時点で保有されていることとなり、人間らしい特質であるとも言えるかもしれない。が、それは仲間内の弱者に対象を限定される性質であり、仲間でないと判断された者に対しては、無効であると思われる。仲間以外の弱者をいじめることは、実にふつうなことである。先史時代から歴史時代にかけて、ユーラシアから極東アジアに至るまで、全時空的に行われてきた極めて普遍的な人類の行為である。詮ずると、いじめをする人間は極めて人間的な人間であり、人間的にまっすぐな特質を持つのであるといえるのではないか。

 こんな不毛で下らない文章を書きたくなるのは、世の人間が、人間を過大評価しすぎていることに違和感を覚えるからである。一旦世間の常識を差し置いて、私個人の考えからすると、人間らしい人間より、人間らしくない人間のほうが好きだ。そして、人間より犬が好きだし、犬と同等に猫が好きだ。ごくたまに犬や猫のような人間がいるが、彼らも悪くない。赤ん坊や子供は、人間というより動物に近いから、可愛げがある(ただ彼らは潜在的に弱者いじめという人間らしい側面を極端に見せるようになる)。至極簡潔に言えば、人間は本質的に悪であり、人間らしさとは悪徳であると私は考えているというだけのことなのである。

 思うに、犯罪者や殺人者、不良行為少年諸氏は人間に極めて忠実、まっすぐなんだと思う。それを認めた上で、人間性が原因で惹起される彼らの悪徳事件を断罪し、非人間的価値観を推し進めていく必要があるのだ。長時間労働なんかも、非人間的(非人道的は似ているが違うと思われる)だからでなく、極めて人間的な発想―時間をかけていればその成果如何を問わず、頑張っていると見做すようなごく単純で自然な人間の心理的発想―から、換言すれば、気持ちの問題が根源に存在するから、引き起こるのであろうと思う(更に、これも極めて人間らしいが、他人の目を気にする人間の心理、自分より先に帰る奴が憎い心理もあるんじゃないか)。

 以上の文章じみた支離滅裂な単語並べを、苦痛に耐え忍んで読めば、私がいかに人間性に問題があるか理解して頂けるのだと思う。私はこれまで恋人はもちろん、親しい友人など一切持ったことがないし、壊滅的な社交性ゆえ、他人から好意を持たれたことは一度もない。オカルティズムやペシミズム、ニヒリズムをごちゃ混ぜにした思索もどきをするほか、趣味もなく、特技もなく、これからの人生に対して一切の期待を廃棄した人間である。しかし、私には犯罪意欲が全くないし、弱者を虐めた経験よりもむしろ、虐められた経験のほうが数多い。私は歩行者として信号を忠実に守り、電車で隣に空席があればカップルに座席を譲り、カフェの店員さんが不手際で私の衣服に飲料をぶっかけても決して怒らない。これらは実は、全て私の人間性が歪んでいるからなのである。

 この文章は、罪を犯した人間に対して、「人間性に問題があるのではないか」「教育の問題だ」「詰め込み教育より人間らしさを育む教育を」といった、具体的内容が一切伴っていない批判が衆人に賞賛されているのを目にする度に零さざるをえない長嘆を、天才チンパンジーのアイちゃんが言語訓練の為にひどい日本語で書き表したものであるから、『別冊社会不適合』関係者各位以外の方は、醒めた目で知らんぷりして頂くのが、最善であろうと思う。

 つまるところ、「人でなし」という侮蔑と「人間離れした」という賞賛がせっかく同居しているのだから、片一方を愛でるばかりではいけない。「人間らしい」という観念が、肯定的な観点からというよりも、全く逆に否定的な観点から捉えられるべきではないか、別に否定的じゃなくても、男らしさ、女らしさといった観念とともに見直されるべきではないか、と言いたいのかもしれない(自問自答)。

へそ天エリザベスカラー

  学生の頃は、その生活が消極的な態度を許してくれたから、怠惰な私でさえも、平凡な日常の繰り返しを孤独に乗り切ることに何ら苦はなかった。ただ今は生きる為には、働いて、生活費を稼いで、人間関係を良好に維持しながら、精神を病むことなく、無意味な生を生き切らなければならないという積極性で前向きな姿勢が必要とされている。そこでは消極的であったり、悲観的であったりすることは殆ど許されない(少なくとも精神病者や自殺者に対する世間の眼差しを考えると、私にはこう思えるのである)。

 学生の頃と社会人の頃とで変わらないものは、日常の平凡さである。ただ、社会人になって私に課せられる役割の多くは私の能力を越えたものであり、世間の普通の人程でもないだろうけれど、それなりに困難や挫折を感じることがしばしばあった。しかし、それらの役割は幸か不幸か、心を挫くほど激烈に暴力的でもなく、その耐え難い重圧ゆえに逃避手段として死を選ぶほどの深刻さもない。死を真剣に考えるほど追い詰められることはないけれど、このどっちつかずな状況によって、生きることにも死ぬことにも真摯になれないでいる。ただ気がついたら、人生という面倒な問題に当事者として巻き込まれていて、訳もわからないまま、当事者としての責任を求められている。

 どこかで聞いたけれど、一説によると、責任とは自身の自由な行為に伴って生じる務めらしい。だが、人生はその始まりからして不条理なものだから、なんでこの人生の責任を一から十まで負わねばならぬのかと考えないこともない。組織上で課せられる責任について言えば、その務めは果たさねければならないが、生きる上で課せられる責任って何なんだ……。つがいになって、子供を産んで、育てて、死ぬことならば、残念ながらその責任は果たせそうにない。

 単純に生活に面白さ、興味深さがない。今読んだ本に、興味深いとは一見主観的な形容に見えるが、その実は客観的であり、物事の複雑さや深刻さに比例して興味深さも増してくるという。一言で言えば僕はバカなので、複雑な事柄や深い問題について理解が及ばない。何とか興趣を感じ得ようとしても、中々難しく、これが興趣であると理解することまでは可能だが、本当の面白さを体感できることがない。いや、一時的に情動が突き動かされることもありますが……これはナンセンスだという考えが常に片隅にあり、本当に楽しめない。人生楽しくないですよね。懲役40年という皮肉が皮肉じゃなくなってきた気がします。

 といいつつ、最近になって再び、一部界隈でカルト的人気を誇る女児向けアニメ・アイカツ!を視聴し始めている。大体25話まで見終わったところである。話のスタイルは子供を対象としたアニメらしく、一貫して教訓的で前向きな話が続き、穏やかじゃない空気が殆どないユートピア的世界が展開されている。特に、降りかかる苦難やチャンスに対して果敢に挑戦していく星宮いちごの天真爛漫な姿を観るにおいては、毎回思わず涙せざるを得ない。アニメ全体の話の展開も、現在放映中の女児アニメ・プリパラと比べると、破天荒さやその場の雰囲気によるゴリ押し等が全く存在せず、極めて論理的で美しく構成されている。そこには理性の光というか、真理に対する明快で真摯な姿勢が示されており、合理的で適切なプロセスを踏んでいけば必ず真理へ辿り着けるという確信に満ちた雰囲気が全体にあるように思える。ここで真理とはトップアイドル、神崎美月(≒神)のことだと思われる。勿論アイドル全員が適切なプロセスを踏める訳ではないだろうが、いわゆる「正しい努力は正しい形で報われる」という思想が背景に感じられると私は個人的に思うのである。実に元気づけられるアニメである。20話からは藤堂ユリカという個性的なアイドルが登場しているが、私は彼女のキャラクター性が非常に好きである。益々今後が楽しみである。

 ところで、私が女児アニメを観始めたキッカケを考えたけれど、それはtwitterでフォローしている人のアイカツに対する愛に対して、不可解さを感じつつ興味を覚えたからだと思い出した。その人はある種魅力的な人だったが、その魅力的な人物がハマる女児アニメとは一体……。そこで女児アニメとして当時土曜日に放送されていて視聴可能だったプリパラを観始めたのである。

人として軸がぶれている。

 先日、私は仕事を辞めて、今は家で引き篭り暮らしをしているのですが、ずっとこのままでいる訣にもいきません。私は賃労働者として企業に勤め、金を稼ぎ、糊口を凌がねばならないのです。 

 早く就労しなければならないと言う焦燥感を覚えながら、一方で、私の生きる道は既に閉ざされてしまっているのではないかと言う諦念が日に日に強まっているのです。就労するにしても、日本社会は私のような無能に対して、人格を持った個人ではなく、火を点けると燃え上がって死ぬガソリン程度の役割しか期待していないと言うことが痛感させられたし、私自身、自分一人を養う職業能力も生存意欲も有していないことをつくづく認識させられました。死ななければならない。別に死にたい訣ではありません。しかし、現状を鑑みると、一刻も早く命を絶つことこそが、これ以上の不快や絶望を避ける第一の手段であり、また、不快や面倒を撒き散らさなくて済む最後の手段だと思われるのです。そうは言っても、死は怖い。その上幾らでも延伸できるので、死なないでいます。生来の怠惰が死を私から遠ざけています。

 ギリシアのミダス王は賢人シノレスに「人間とは何か」について詰問した時、シノレスはこう言い返したそうです。「人間にとって一番良いことは、生まれてこなかったことだ。その次に良いのは、一刻も早く死ぬことだ」。

 確かに人生は地獄的ですが、地獄的であるからこそ、人間はそれに見合うだけの美しい仮象の世界を作らざるを得ないようです。文学とか、美術とか、哲学とか、宗教とか。私は即席で教養を身につけようとしている俗物なので、高尚なテーマには詳しく踏み込めないのですが、このような文化が人間が生きる上での支えになっているのだという陳腐な感想を抱くのです。Twitterを眺めていると、こうした生きる上での支え、換言すれば「軸」を持っている方が多いように見えます。軸なんて大それた言葉を使わなければ、興味や関心、趣味と言ってもいい。それは音楽だったり、小説だったり、絵だったりする。学問でも、仕事でも、酒でも、タバコでも、競馬でも、戸川純でも、ドゥーチェ・アンチョビでも、アイカツ!でも、プリパラでもあったりする。無論、彼ら乃至彼女らが実際それを生きる上での支えと考えているかは判りません。ただ、恐らく、それらに関する話題が豊富である為、自分の好奇心を唆る事物であると認識しているということは間違いないと思われます。そして、その好奇心を充足している間は死の存在を忘れることができるのは、死という無常を意識している場合は娑婆世界の一切は全て無価値であると悟るはずであるという観点から、明らかでしょう。死を忘れることは消極的に生の存続を保ちます。故に、好奇心も生きる支え・理由に十分成り得ると言っても差し支えはないとします。もしかしたら、価値なんてないと思いつつ、惰性で話題にしているのかもしれませんが、路傍の石と同等の扱いをしていない以上、一分の価値を見出しているのは間違いありません。

 翻って、こうした好奇心による生きる支えを得ていると思われる方たちと自分とを比べると、私は何も支えがない。軸がない。これこそ私だと語れる存在も根拠もない。例えば、プログレが好きと言っても、メロトロンがどうのだとか、変拍子がどうのだとか語れるほどの音楽的素養はありませんし、今更それを身につける努力をする気にもなりません。オカルティズムも好きなのですが、コリン・ウィルソンの『オカルト』は途中までしか読んでませんし、月刊ムーなんて開いたこともありません。大学は史学科まで行ったのですが、殆ど学究に熱心ではありませんでした。父や兄が歴史好きだから、自分も歴史が好きだと思っていたのですが、それは思い違いであったとそのとき悟りました。好きなはずなのに、得られる快楽感情は塵に等しいほど乏しい。実は好きなふりをしているからなのです。「○○が好きな(得意な)自分になりたい」という幼児的な英雄願望がある。自分は何が本当に好きなのか判らないし、何をすれば楽しいのか、何がしたいのかすら判らない……こうした中学生レベルの未成熟な自己形成を以て、就職活動に挑み、私は敗れることになりました。

 何がしたいかでなく、何ができるかで職業を選ぶというご意見は大変ご尤もな事です。私にできる仕事とはいったい……。それに、不本意な環境の中で日々ストレスと将来に対する絶望を味わいながら、楽しみもなく喜びもなく生きたところで、そこまでして生きる価値があるのかこの人生と思うのです。臥薪嘗胆の日々を送った越王勾践には倒すべき相手がいましたが、私には敵すらいない。ちなみに横山光輝の『史記』は面白かったです。伍子胥とか、楽毅とか格好良すぎます……特に連合軍を結成し怒涛の勢いで斉を追い詰める描写はもう堪らなかった記憶がありますね……昔は楽しめてたはずなんだけどなあ……あの頃に戻りたい……もう何もかも終りにしよう……。

 発達障害は私の人生のデウス・エクス・マキナであり、これまでの挫折、孤独、憂鬱、不可解を全て論理的に説明して全ての疑問やトラウマの原因を解消させてくれる怪物でした。但し、私の物語は終止符を打たれないまま何事もなく続くのですが、この怪物と共存する自信が全くありません。

特に面白いオチがある訣でも、自己啓発サイトにありがちな根性論的脳筋対処法を提示する訣でもなく、絶望感を漂わせたままこの文章は終りとなります……。

踊る赤ちゃん人間

はじめに

 無気力・無関心・無責任といういわゆる「三無主義」は、1980年代の若者の気質傾向を一方的且つ断定的に評価する際の文脈で、「しらけ世代」とともにしばしば使われる言葉です。また、現代の若者気質を表す言葉に「さとり世代」というものがあり、このさとり世代は先述した三無主義を変質的に継承しております。特徴としては下記のようなものが挙げられます(適当に名称をつけました)。

 

  • 反既存価値 伝統的価値観への無関心。「自動車・ブランド品・海外旅行等に興味を持たない」

  • 草食化  現実の性に対する冷淡な態度。「恋愛に興味がない」

  • 老子化  無駄な努力や不合理な消費は避け、コスパを重視する。「欲がなく、足るを知る」

  • オタク化 自己の精神的な豊かさを重視する。「趣味にはお金をかけて熱心に取り組む」

 これらの気質(以下「さとり的気質」と呼称します)を特徴として挙げることは、さとり世代に対する断定的な評価として、差別語としての側面も強いものの、若者世代の中の「類型化された特殊集団」の特徴を概ねよく分析していると思います。私は世代論が好きではないのですが、さとり世代とされる私自身もよく当てはまる為、上記の世代評価を全面的に否定することができません。しかも、私はしらけ世代の三無主義も継承しているとようで、更に「無感動」を加えて四無主義としましょうか。良くも悪くも、私が巷で言われる若者の感性にかなり近い傾向の気質を有していることは主客両方の観点から見て妥当であると思われます。

 

赤ちゃん人間の特徴

四無主義

 前提として、赤ちゃん人間の特徴を掘り下げていきたいと思います。まず、四無主義に至る原因を考えます。なぜ無気力・無関心・無責任・無感動な気質になってしまったのか。まず、それぞれの気質を表すエピソードを提示します。

  • 無関心・無感動 私は小学生の頃から、他者に対する関心度が低く、内省的で常にボーッとしており、ゲームに一人で没頭することはあれど(同級生と協力プレイ等はしたことがありませんでした)、狭義的な感動(喜び、興奮等の感情反応)の表出に乏しい子供でした。即ち、無関心・無感動を既に具有している子供でした。

  • 無気力 無気力の「気力」を辞書的に「何かを行おうとする精神力」と捉えるならば、自発的な行動は小学校低学年の頃に「そろばんやりたい」と申し出たくらいで、それ以外は大抵周囲に流されて生きてきました。「そろばんやりたい」という申し出も、他の子がしているのを見たからというそれほど積極的でない理由からでした。このように既に無気力な、積極的に何かを行おうという意欲に缺けている子供でした。

  • 無責任 無責任については、例えば野球に強制的にやらされて一塁に配置されたことがありましたが、野球のルールが解らず、何よりも楽しくないから、という理由で誰に言うこともなく帰宅したことがあります。自分の役割や自分に期待されている行動を理解したり、その為に技能を身につける努力をしたりすることもないので、無責任な子供だったと言えるでしょう。

 こうして記憶を掘り起こすと、なんと出来損ないの問題児だったんだと我ながらうんざりします。

 以上、小学生の頃に既に四無主義を徹底していたとすると、もっと幼い頃に原因があると思われますが、両親に虐待されただとか、両親が某北の夢の国の工作員だっただとか、ロシアンマフィアに拉致されて一流の殺し屋として育てられて感情を失っただとかいう特殊な家庭環境だった訣でもなく、恐らく、ごく平凡な環境で育ちました。家庭環境に問題がないとしますと、ここでは最も蓋然性が高い原因として先天性を挙げたいと思います。

さとり的気質

 では、さとり的気質についてはどうでしょうか。これは先ほど申し上げた通り、三無主義の特殊継承であります。伝統的価値観への関心が低く(無関心)、伝統的価値観に染まり価値観を現実生活に反映する気力にも乏しい為(無気力)、さとり的気質の前二者の特徴が顕在化するのだと思われます。さらに、生存や生活への生への無関心・無気力という点から言えば、金銭を稼いで糊口を凌ぐ積極的理由に乏しく、それゆえに経済力をある程度必要とする伝統的価値観の反映は難しい。恋愛もまた経済力を必要としますし、「結婚して一人前」という伝統的価値観への無関心、生存への無関心=子孫繁栄への無関心を併せて考えると、草食化も必然的です。その結果、酸っぱいブドウの論理も働き、老子化が起こるのでしょう。

 オタク化が起こるのはなぜでしょうか。これについては、一見四無主義と相反しているように見えますが、実際のところ、両者は同類項なのです。というのは、四無主義の無感動・無関心は外的事象に対して作用するのと同じく、低次のオタク趣味は外的対象を興味対象として扱うのでなく、それを内面化し、自己の興味ある一部分として取り扱います。言い換えれば、自己満足です。高次のオタク趣味(同人活動や学術研究)になると話は別ですが、少なくとも赤ちゃん人間のオタク化は低次のそれです。

結論

健常か否か

 赤ちゃん人間は先天性を原因として、四無主義の特徴を揃え、その四無主義の結果として、さとり的気質を備えるようになったというのが蓋然性の高い仮説となります。この仮説を以てして、私は自身が発達障礙者ではないかと疑い、心療内科の門を叩いたところ、発達障礙者であるとお墨付きを貰いました。仮説が証明されましたが、しかし全ての発達障礙者が赤ちゃん人間になる訣ではありません。対人関係が得意だったり、立派に職業活動に従事していたりする発達障礙者もたくさんいらっしゃいます。それなのに、なぜ彼らと赤ちゃん人間に差が生じてしまったのでしょうか。赤ちゃん人間の精神に対する救いはあるのか?

バカでかい赤ちゃん

 結論から言うと、赤ちゃん人間は人間関係の希薄さゆえに救われないでいると思います。これまでの人生において、赤ちゃん人間は恋愛はおろか、親しい対人関係を契ったことは一度もありませんでした。赤ちゃん人間は中学生の頃まで、低次のオタク趣味的自己満足を満たすことでその生命を永らえさせていきました。そして赤ちゃん人間は受験勉強に新たなる自己満足を見出し、大学に入ったところで、赤ちゃん人間は赤ちゃん人間に気づきました。受験勉強という自己満足を失った結果、オタク趣味的自己満足に立ち返ることもできず、途方に暮れてしまった赤ちゃん人間。ナチュラルな赤ちゃんと違ってもはや何の成長性のないバカでかい赤ちゃん。赤ちゃん人間はアンデンティティー・クライシスに直面し、再構築を試みるも、自己とは自分の手で全て拵えるものではなく、他者の手を借りて、時には他者に依存して作り上げていくものだと理解する。しかし、既に赤ちゃん人間は他者から孤絶している。赤ちゃん人間は淋しさを感じないが、虚しさを感じる。共感を求めないが、実感を求める。

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」

 孤独の虚しさに直面した赤ちゃん人間は、すべての価値基準を相対化し、信仰の道に進むことを決意するのである。赤ちゃん人間にはもはや嘲りも怒りも常識も通じない。運命を超越するのだ。人生の意味とは……。