zsupohs

鬱みたいな日記

独善的な文章を書きました。

 平日は「自分も今は出来損ないの無能だけど、まともに仕事していればいつか普通になれるんだ……」という妄想を信じてどうにかこうにかやっていくことはできるんですえけど、休日になると途端に現実に直面してしまい、もう辛くなって何もやる気がおきません。

 この停滞感をどう解消すればいいのかとんと見当も付きません。自分なりに独力でもがいてきましたが、このむなしさ、かなしさ、モノワビシサ……他人に相談しようとしても、友人はいませんから、結構前に、心療内科でカウンセリングを行っているところがあって、発達障害のことでカウンセリングを受けたいと伺ったら、精神科医に遠回しに拒否されました。私は愚かにも、アメリカみたいなカウンセリングを想像していたんですが、おそらく日本では、重度の精神病患者や人格障害者にしかカウンセリングの門扉は開かれていないようです。結構ひどく言われたので、相当ショックでした。

 さて、カウンセリングには罹れない。身内にも言えない。友人はいない。しかし辛いものは辛い。一人で耐えられうるものでは正直ないのです。どうするかなと思って、結局ネットで延々と毒を吐きまくるしかなく、それも一時的なストレス発散にはなるのですが、結局何も解決していないんで、逆に、自己嫌悪感から更にストレスが溜まるんですね。そうして厭な感情がどんどん溜まっていって、もう救いようのないほどドン底に人格が堕落したなと思っています。もともと人格が特別優れた方ではないんですが、せめて人格を磨いて精神くらい高潔であろうと昔は考えていました。もうムリです。貧すれば鈍すると言いますしね。第一、私が善人ぶっていた時は全て損する立ち回りでした。だからもう私は誰にも親切にしませんし、誰が死のうが心底どうでもいい。ニュースとかで「彼はいい人だった〜」とかありますが、もうああいうの、やめてほしいですね。いい人だろうが死ぬ時は死ぬし、いい人だから惜しいとか、反吐が出ますね。あんないい人が死ぬなら代わりにどうでもいい人が死ねばよかったのに、という思惑がミエミエで、非常に不愉快ですね。

 ただ、日常生活を送っているとそういう不愉快な綺麗事を得意顔で述べる阿呆が結構いるんですよね。新聞の記事や投稿欄、テレビ番組やインタビュー、ネットでも結構いますね。不愉快を避けようにも、テレビはとにかく、ネットを一切観ないというのもちょっとできかねますし、まあなるべく視界に入れないよう努力してるんですが、一度視界に入ってしまうと、感情が乱されてしまい、何もかも厭になります。

 これも精神科医の言葉同様、ずーっと引きずってるんですけど、twitterでも、お前の悩みは大したことないとハッキリ言われたことあるんですよね。その発言も結構精神的に来ましたね。twitterでちょっとやり取りして、あんたは精神病でも何でもない、普通だ、悩みは大したことない、だから頑張れという趣旨の言葉を言われたことがあります。私は精神病を自称したことは一度もなかったんですが、結構つらいですね。ずーっと覚えています。多分死ぬまで覚えていますね。不愉快な出来事として。

 自分は不愉快な出来事をずーっと覚えていまして、これはまあ誰しもそうかもしれませんが、突然思い出して心が乱されることがあります。20年以上生きてきて、溜まりに溜まった不愉快な出来事が、頻繁に心を苛みに来るのです。

 結局のところ、私は誰かに救われる立場ではない。一応、発達障害とは言われたんですが、そんなラベルは結局無意味だ。ちょっとやり取りしたくらいで相手の健康度を判定できる人間がネットにゴロゴロいるくらいですから、現実は況や。そんなラベルを使っても、でも○○だから大丈夫でしょ、本当の○○は☓☓だからあなたは違う、と十中八九言われます。

 人生は自分の足で立って生きていくのは当然です。ただ、こんな風に「人生は自分で決めるものだ」と得々と語る人で、孤独や孤立、疎外を経験したような人は殆ど見かけないように感じます。何かしら、例え一時的にでも、他者との経験がシッカリ蓄積されてるんですよね。その上で何もない人間に向かっていうもんですから、私は困ります。ごくたま〜に、孤独・孤立・疎外を超克した超人がいますが、そこいらの凡人を説教する為に引き合いに出すのは、とてもナンセンスなことなんですよね。

 だから私は惨めな一人暮らしをやめて、現時点で頼れるものは全て頼ろうと思ったのです。他人は私よりもずっと多くのものを頼みに生きているようですしね。誰かが言ってたんですが、「自立」とは、自分ひとりで生きていくのではなく、依存先を増やしていくことだ……というらしいです。異論はあるんでしょうが、私は納得しました。私は依存先を増やせないもんですから、ダメです。

 他人の助言はつまるところ、何となく運がよくてどうにかなった人間の戯言にすぎないので、取るに足りません。

the pillowsとPink Floydと。

 これは私見であるが、ネクラな人間の多くはthe pillowsが好きである。かくいう私も好きである。社会の鼻つまみ者にとっては歌詞の聴き心地が特に良い。作詞担当の山中さわおがネクラとは正反対の人間であるのに、どうしてこうもネクラの心を動かす歌詞が書けるのか、不思議なことである。

 好きな歌詞について書くのは大変恥しい行為であると思われるが、好きなんだからしょうがない。the pillowsの歌詞について触れるとすると、彼らの歌詞には常に孤独がつきまとっているように感じられるのである。ニヒリズムの雰囲気が漂っていて、とても悲観的である。「希望がある」「頑張れば必ず報われる」といった嘘くさい綺麗事が一切なく、かといって激しく絶望している訳でもない。静かな絶望の中に吊るされているような、正負両端に積極的に振れる必要がないのが、安心するのであろう。ニヒリストを気取って一切の物事を醒めた目で見がちなネクラにとっては、熱くもなく、かといって必要以上に絶望的でないthe pillowsは、非常に魅力的に映るのではないか。

 以下も私見である。例えば彼らの代表曲『ストレンジカメレオン』の歌詞なんかは、孤独感を饒舌に表現している詩に他ならない。歌詞中に出てくる「君」とは何を指すのかという問題があるらしいが(ファンだとかメンバーだとか音楽性自体とか色々あるらしい)、絶対に「恋人」なんかではないのが大変ステキである。これをミスチルが歌うと量産的ラブソングになるからつまらない(別にミスチルが嫌いなわけじゃない)。自分の音楽性や志向性が周囲から理解されていないこと、ひいては精神的に孤絶していることに対する苦悩を書き表した素晴らしい詩である。まあ僕は質が悪いのでバンドやってる時点で孤独でもなんでもないじゃん、とか思うんだけど、バンドの実態と歌詞を切り離して考えると、魅力される詩だ。

 後は、

  • レッサーハムスターの憂鬱
  • ICE PICK
  • Robotman
  • Blues Drive Monster
  • Curly Rudy

なんかもネクラ受けがよいのではないか。『Blues Drive Monster』とかは青臭い疎外感をよく表している。

 ネクラな人間の多くはthe pillowsが好きと冒頭に述べたのは、ネクラ→アニメ好き→FLCLも好き→FLCLの挿入歌はthe pillowsの楽曲である→ネクラはthe pillowsが好き、という単純な連想も背景にあるのだが、以上のような彼らの楽曲の雰囲気も関係あるんじゃないかと思った次第である。

 ところで、似たようなもので、メンヘラの人間の多くはPink Floydが好きではないか、と私は思うんだけれど、あまりいなさそうである。絶対ウケると思うのに。

人間性について書きました。

 他人を指弾する際、「人間性に歪みがある」という文句はよく使われるところであるが、人間性の歪みとは一体なんなのだろうか。そもそも、人間性、人間らしさとは何なのだろうか。私には今のところ全くわからないけれども、彼らは人間性という言葉の語義について明確に理解するがゆえに、こうした文句を言っているのであろうから、彼らにぜひ訊ねてみたい。人間らしさとは何なのか。例えば、自分より弱い人間がいたら、虐めたくなる心理が人間らしいのか。それとも、弱者いじめはよくないという姿勢を持つのが人間らしいのか。ここで、いじめるとは、相手の財物を略取したり、身体に暴行を加えたり、精神的な苦痛を与えたり、生命を奪ったりすることであるとする。後者の「人間らしさ」は、私の感覚的からするとちょっと宗教的な匂いがするし、人為的に発明せられた倫理意識を以て後天的に獲得された特性のようで、人間のナチュラルな特性じゃあないような気がする。もちろん、弱者をいじめるのではなく逆に弱者を介助するような特質は、ネアンデルタール人にも発見されうる原初的な特質であり、彼らの遺伝子が我々現生人類に継承されているとすると、そのような特質は現生人類発生時点で保有されていることとなり、人間らしい特質であるとも言えるかもしれない。が、それは仲間内の弱者に対象を限定される性質であり、仲間でないと判断された者に対しては、無効であると思われる。仲間以外の弱者をいじめることは、実にふつうなことである。先史時代から歴史時代にかけて、ユーラシアから極東アジアに至るまで、全時空的に行われてきた極めて普遍的な人類の行為である。詮ずると、いじめをする人間は極めて人間的な人間であり、人間的にまっすぐな特質を持つのであるといえるのではないか。

 こんな不毛で下らない文章を書きたくなるのは、世の人間が、人間を過大評価しすぎていることに違和感を覚えるからである。一旦世間の常識を差し置いて、私個人の考えからすると、人間らしい人間より、人間らしくない人間のほうが好きだ。そして、人間より犬が好きだし、犬と同等に猫が好きだ。ごくたまに犬や猫のような人間がいるが、彼らも悪くない。赤ん坊や子供は、人間というより動物に近いから、可愛げがある(ただ彼らは潜在的に弱者いじめという人間らしい側面を極端に見せるようになる)。至極簡潔に言えば、人間は本質的に悪であり、人間らしさとは悪徳であると私は考えているというだけのことなのである。

 思うに、犯罪者や殺人者、不良行為少年諸氏は人間に極めて忠実、まっすぐなんだと思う。それを認めた上で、人間性が原因で惹起される彼らの悪徳事件を断罪し、非人間的価値観を推し進めていく必要があるのだ。長時間労働なんかも、非人間的(非人道的は似ているが違うと思われる)だからでなく、極めて人間的な発想―時間をかけていればその成果如何を問わず、頑張っていると見做すようなごく単純で自然な人間の心理的発想―から、換言すれば、気持ちの問題が根源に存在するから、引き起こるのであろうと思う(更に、これも極めて人間らしいが、他人の目を気にする人間の心理、自分より先に帰る奴が憎い心理もあるんじゃないか)。

 以上の文章じみた支離滅裂な単語並べを、苦痛に耐え忍んで読めば、私がいかに人間性に問題があるか理解して頂けるのだと思う。私はこれまで恋人はもちろん、親しい友人など一切持ったことがないし、壊滅的な社交性ゆえ、他人から好意を持たれたことは一度もない。オカルティズムやペシミズム、ニヒリズムをごちゃ混ぜにした思索もどきをするほか、趣味もなく、特技もなく、これからの人生に対して一切の期待を廃棄した人間である。しかし、私には犯罪意欲が全くないし、弱者を虐めた経験よりもむしろ、虐められた経験のほうが数多い。私は歩行者として信号を忠実に守り、電車で隣に空席があればカップルに座席を譲り、カフェの店員さんが不手際で私の衣服に飲料をぶっかけても決して怒らない。これらは実は、全て私の人間性が歪んでいるからなのである。

 この文章は、罪を犯した人間に対して、「人間性に問題があるのではないか」「教育の問題だ」「詰め込み教育より人間らしさを育む教育を」といった、具体的内容が一切伴っていない批判が衆人に賞賛されているのを目にする度に零さざるをえない長嘆を、天才チンパンジーのアイちゃんが言語訓練の為にひどい日本語で書き表したものであるから、『別冊社会不適合』関係者各位以外の方は、醒めた目で知らんぷりして頂くのが、最善であろうと思う。

 つまるところ、「人でなし」という侮蔑と「人間離れした」という賞賛がせっかく同居しているのだから、片一方を愛でるばかりではいけない。「人間らしい」という観念が、肯定的な観点からというよりも、全く逆に否定的な観点から捉えられるべきではないか、別に否定的じゃなくても、男らしさ、女らしさといった観念とともに見直されるべきではないか、と言いたいのかもしれない(自問自答)。