zsupohs

るんるんりる

人間性について書きました。

 他人を指弾する際、「人間性に歪みがある」という文句はよく使われるところであるが、人間性の歪みとは一体なんなのだろうか。そもそも、人間性、人間らしさとは何なのだろうか。私には今のところ全くわからないけれども、彼らは人間性という言葉の語義について明確に理解するがゆえに、こうした文句を言っているのであろうから、彼らにぜひ訊ねてみたい。人間らしさとは何なのか。例えば、自分より弱い人間がいたら、虐めたくなる心理が人間らしいのか。それとも、弱者いじめはよくないという姿勢を持つのが人間らしいのか。ここで、いじめるとは、相手の財物を略取したり、身体に暴行を加えたり、精神的な苦痛を与えたり、生命を奪ったりすることであるとする。後者の「人間らしさ」は、私の感覚的からするとちょっと宗教的な匂いがするし、人為的に発明せられた倫理意識を以て後天的に獲得された特性のようで、人間のナチュラルな特性じゃあないような気がする。もちろん、弱者をいじめるのではなく逆に弱者を介助するような特質は、ネアンデルタール人にも発見されうる原初的な特質であり、彼らの遺伝子が我々現生人類に継承されているとすると、そのような特質は現生人類発生時点で保有されていることとなり、人間らしい特質であるとも言えるかもしれない。が、それは仲間内の弱者に対象を限定される性質であり、仲間でないと判断された者に対しては、無効であると思われる。仲間以外の弱者をいじめることは、実にふつうなことである。先史時代から歴史時代にかけて、ユーラシアから極東アジアに至るまで、全時空的に行われてきた極めて普遍的な人類の行為である。詮ずると、いじめをする人間は極めて人間的な人間であり、人間的にまっすぐな特質を持つのであるといえるのではないか。

 こんな不毛で下らない文章を書きたくなるのは、世の人間が、人間を過大評価しすぎていることに違和感を覚えるからである。一旦世間の常識を差し置いて、私個人の考えからすると、人間らしい人間より、人間らしくない人間のほうが好きだ。そして、人間より犬が好きだし、犬と同等に猫が好きだ。ごくたまに犬や猫のような人間がいるが、彼らも悪くない。赤ん坊や子供は、人間というより動物に近いから、可愛げがある(ただ彼らは潜在的に弱者いじめという人間らしい側面を極端に見せるようになる)。至極簡潔に言えば、人間は本質的に悪であり、人間らしさとは悪徳であると私は考えているというだけのことなのである。

 思うに、犯罪者や殺人者、不良行為少年諸氏は人間に極めて忠実、まっすぐなんだと思う。それを認めた上で、人間性が原因で惹起される彼らの悪徳事件を断罪し、非人間的価値観を推し進めていく必要があるのだ。長時間労働なんかも、非人間的(非人道的は似ているが違うと思われる)だからでなく、極めて人間的な発想―時間をかけていればその成果如何を問わず、頑張っていると見做すようなごく単純で自然な人間の心理的発想―から、換言すれば、気持ちの問題が根源に存在するから、引き起こるのであろうと思う(更に、これも極めて人間らしいが、他人の目を気にする人間の心理、自分より先に帰る奴が憎い心理もあるんじゃないか)。

 以上の文章じみた支離滅裂な単語並べを、苦痛に耐え忍んで読めば、私がいかに人間性に問題があるか理解して頂けるのだと思う。私はこれまで恋人はもちろん、親しい友人など一切持ったことがないし、壊滅的な社交性ゆえ、他人から好意を持たれたことは一度もない。オカルティズムやペシミズム、ニヒリズムをごちゃ混ぜにした思索もどきをするほか、趣味もなく、特技もなく、これからの人生に対して一切の期待を廃棄した人間である。しかし、私には犯罪意欲が全くないし、弱者を虐めた経験よりもむしろ、虐められた経験のほうが数多い。私は歩行者として信号を忠実に守り、電車で隣に空席があればカップルに座席を譲り、カフェの店員さんが不手際で私の衣服に飲料をぶっかけても決して怒らない。これらは実は、全て私の人間性が歪んでいるからなのである。

 この文章は、罪を犯した人間に対して、「人間性に問題があるのではないか」「教育の問題だ」「詰め込み教育より人間らしさを育む教育を」といった、具体的内容が一切伴っていない批判が衆人に賞賛されているのを目にする度に零さざるをえない長嘆を、天才チンパンジーのアイちゃんが言語訓練の為にひどい日本語で書き表したものであるから、『別冊社会不適合』関係者各位以外の方は、醒めた目で知らんぷりして頂くのが、最善であろうと思う。

 つまるところ、「人でなし」という侮蔑と「人間離れした」という賞賛がせっかく同居しているのだから、片一方を愛でるばかりではいけない。「人間らしい」という観念が、肯定的な観点からというよりも、全く逆に否定的な観点から捉えられるべきではないか、別に否定的じゃなくても、男らしさ、女らしさといった観念とともに見直されるべきではないか、と言いたいのかもしれない(自問自答)。